前回までに「私が悪阻について書く理由」「妊娠からつわりが始まるまで」「地獄のような日々」を纏めてきました。今回はあまりにしんどい悪阻(つわり)のせいで私が「妊娠をやめたい」と本気で思ってしまった、その理由を書いていこうと思います。
※現在、この時妊娠していた子は3歳になり、すくすくと成長しています😊
病院(産婦人科)での初めての点滴
つわりが始まって数週間、本当に地獄のような日々を送っていました。そんな日々の中で私は「このままだと出産前に自分もお腹の子も死ぬかもしれない」と思うようになりました。そして、限界を超えたある日、私は泣きながら母へ助けを求めました。
私が助けを求めた時、“妊娠は病気じゃない。だから、いくらつわりが酷くでも治療は出来ない“と思い込んでいました。母もそうだったと思います。ですが、私が母へ助けを求めた時、私はあきらかに体重が減り、顔色が悪いのはもちろん、自分の力ではまともに歩く事が出来ない状態になっていました。さすがに焦った母はすぐに病院へ電話をしてくれました。
「すぐに病院へ来てください」
私は母へ連れられ病院へ急ぎました。尿検査がありましたが、水分がとれていなかったのでほぼ出ず、脱水になっていたのでそのまま点滴をする事になりました。
よくここまで耐えましたね。すぐに点滴をしましょう。
治療(点滴)してもらえるんだ…助かった………
約3時間ほど点滴をしました。この時、じわっと体に水分が流れていく感覚がありました。それが妙に心地よく…気づいたら少し眠っていたと思います。そして、目が覚めた時、自宅で寝たり起きたりを繰り返していた日々を思い出し、涙が出ました。その時私は「これで楽になれる…」と思いました。
広告点滴からの帰り道、私は久しぶりにお腹をすく感覚がありました。
今ならうどんが食べられる気がする…
母へ相談し、帰り道にある丸亀製麺でテイクアウトをしました。家に着きました。…………結局食べられませんでした。
ですが、うどんのお汁に少しだけ口をつけることができ、とても嬉しかったのを覚えています。この日はそのまま眠りにつきました。
初めての点滴は8週目の出来事でした。
今思えば、本当によくここまで耐えたなと思います。最初にも書きましたが、妊娠は病気ではないかもしれませんが、つわりが悪化すれは死ぬかもしれない病気へと変わります。この後、私は入院をする事になるのですが、もっと早く適切な治療が出来ていれば…と今でも思います。知識の無さから病院へ行くのが遅くなったのです。
先生からも「なんでもっと早く病院に来なかったの!」と怒られました。
もし今、つわりで苦しんでいる方がいたら「病気じゃないから…」と我慢するのではなく、出来るだけ早めに産婦人科に相談して欲しいと思います。
広告点滴に通う日々(実家からアパートへ)
実は妊娠(妊活)前に結婚式をする予定でしたが、新型コロナウイルスの関係で延期になっていました。当初は仕事関係の方や友人も呼ぶ予定でいましたが、日本中が自粛モード。苦渋の決断でしたが結婚式は家族だけで行う予定に変更しました。その後、妊娠が分かりました。初めて点滴をした8週目から、約2か月後です。体調的に結婚式を行える状態ではないと本気で思いましたが、既に1度延期しているのでこれ以上家族に迷惑を掛ける訳にもいかないと思い、予定通り開催する事にしました。
話は戻りますが、初めて点滴をした時に先生に「入院で治療もできます」と言われました。今思えば、「入院してください」ではなかったので、もしかしたらこの時点ではそれ程酷い状態ではなかったのかもしれません。
先ほども言いましたが、約2か月後に結婚式を控えていたので、この時点は入院はどうしても回避したかった。なので入院をせず、出来る限り点滴に通うことにしました。この日から点滴へ通う日々が始まったのです。
通える時は2、3日連続で通っていましたが、次第に病院に行くために乗る車が苦痛になってきました。結局点滴で楽になっても車に乗るとまた気持ち悪くなります。また、点滴も3時間ほどかかるので、その時間ずっと動けないのもしんどくて仕方ありませんでした。次第に、点滴を受けながら嘔吐… もう何の為に点滴しているかも分からなくなっていました。
気づけば実家の匂いが耐えられなくなったので、一旦夫のいるアパートへ戻ることにしました。実家自体の匂いもあるのですが、母が自分たちのために作ってるご飯の匂いや、近所の人のご飯の匂いが夕方になるととてもしんどかったのです。この状態でアパートに帰ることを両親はとても心配していましたが、このことでこれ以上、両親に負担をかけたくないと判断しました。
アパートに帰ってからは、少しでも楽に過ごせるように旦那が私の為にしてくれていた事があります。
- 家で料理をしない
- 仕事を終わりに外食して帰る(もしくは私の実家で食べて帰る)
- お弁当を買って帰る場合は換気扇の下で食べる。匂いのしないもののみ
- 換気扇は24時間最大で動かす
最初はこんな感じだったと思います。今考えても、本当に申し訳ないし、感謝しかない🙏
広告結婚式からの入院
実家にいた時もですが、アパートに戻ってからも昼間に明るい部屋で過ごすことがほぼ出来ませんでした。アパートでも雨戸を閉め、一日中寝室で横になる毎日…。孤独との闘いでした。もちろんテレビやスマホを見ることもできません。ただ、点滴には3日に1回ほどのペースで通っていました。この時、私が動いていたのはこれくらい。
旦那は「何か食べられるかもしれないから」と、毎日いろんなものを買って試してくれました。そのお陰(?)で「ローソンの梅おにぎり」が少し食べられる事が分かってきました。
ローソンさんにも感謝しかない、、、
そんな日々から迎えた結婚式。長い時間立っていられなかったので、ずっと座った状態でした。ですが、久しぶりに化粧をし綺麗な服を着させてもらえて嬉しかったです(つわりが始まってから化粧の匂いが耐えられなかったので1度もしていませんでしたし、お風呂もほぼ入っていない状態でした)。
しかし、結婚式の中で着物からドレスへ着替えたのですが、着物の帯を取った瞬間、血圧が下がったのか…一瞬意識を失いました。結婚式というテンションで何とか耐えていたものの、やはり体はボロボロでした。
全てが終わったあと、ホテルに泊まったのですが、久しぶりの化粧を落とすのにも疲れ、髪を洗うのにも疲れ、お風呂の中でまた意識を失いかけたました。吐きながら助けを求め、夫に洗ってもらったのを覚えています。
夜中もずっと気持ちが悪く、うなだれながら夫に背中をさすってもらって過ごしました。ほんの少しですが、いつもより食べ物を食べれたからだと思います。吐くものは全て、吐きました。吐き出したら、もう止まりませんでした。
そんな結婚式を終えた次の次の日…
私は限界を迎えました。結婚式が終わり、気が抜けたのか分かりませんが、気分の悪さが2倍になった気がしました。もう「子どもを産むのを諦めよう」「妊娠をやめたい」と思いました。壁を何度も蹴った記憶があります。「なんで私の体はこうなんだ」とたくさん泣きました。もう私にはこの気持ちを乗り切る気力がほぼ残っていなかったのです。そして入院になりました。
広告“重度妊娠悪阻”での入院生活
入院すること自体にかなり後ろめたい気持ちがありました。出産自体でもかなりのお金がかかるのに、病気でもないのに入院でお金がかかるからです(何度も言いますが、“重度妊娠悪阻”は病気です。この時は保険が使えると思っていなかったのです)。
でももうこれ以上、1人で頑張れないと思いました。もちろん夫は支えてくれていましたが、日中は暗い部屋に1人、頭がおかしくなりそうでした。気持ちも悪く、寝室とトイレの行き来だけ。しまいには寝室に戻るのがめんどくさくなり、トイレでうたた寝。本当に地獄のような日々だったと思います。そんな日々を送っていると、もう「妊娠をやめたい」と思ってしまうのです。
このままでは妊娠を継続することができないことを感じ、入院を決意しました。
実際に入院するまで、入院して何をするのかは全く知りませんでした。
実際はただ点滴をするだけです。違うのは、これまで通いで受けていたような数時間とかではなく、24時間ずっと点滴をつけ血管に水分を流し続けます。最初は「これはつわりの薬なのかな…」とか思いながら、質問する余裕もなくただ点滴の液体が落ちるのを見つめる日々でした。
入院した当初は点滴をつけてもただ気分が悪く、点滴をつけたまま病院のトイレに崩れ落ちることもありました。枕元には常にバケツを置き、常に嘔吐していました。夜になると更に気分が悪くなり、過呼吸になることも…。
「入院しても良くならない…」
そんなことを考えながら2、3日が過ぎていきました。(続く…)
広告
コメント